マルクス・ガブリエル『新実存主義』の読後感

 正直なところ難しかった。特に第1章、「新実存主義--自然主義の失敗のあとで人間の心をどう考えるか」は難解だった。
 しかし本書は、ガブリエルの本論である第1章に加えて、「新実存主義」への4人の哲学者のコメントと、それに対するガブリエルの反論、すなわち第5章「四人に答える」から構成されている。これらを通読することによって、ある程度は彼の主張が理解できたようにも思える。
 なおこの4人のなかで、序論を執筆しているジョスラン・マクリュール、第2章のチャールズ・テイラー、第3章のジョスラン・ブノワの3人はおおむねガブリエルの主張を支持し、第4章のアンドレーア・ケルンだけがかなり批判的であるように思えた。
 
 さて第1章のポイントは、やや乱暴だが次のように要約できそうだ。人間の死によって脳が停止すると「心」や「精神」の機能も失われるという事実は否定しない。しかし、だからといって脳という自然界の実体に「心」が左右され、その活動によって「心」の活動が説明できるわけではない、人間の「心」、あるいは「精神」はきわめて複雑な現象であってこれに対応するような現実、あるいは実体のようなものは存在しないのだ。
 思うにこれに近いことは、哲学者でなくても多くの現代人が感じているのではないかと思う。地球が成立してからの数十億年の間に生命が発生し、現在のような生態系まで発展してきたことは、どうやら理解できる。自分ができなくても、あるいは今の科学者には無理でも未来の科学者が、既成の生物の遺伝子操作ではなくまったくの無機物から生命を作り出す日がいずれは来るかも知れない。しかしその生命が意識、すなわち自己とそれを取り巻く環境の存在の認識と、その自己や環境に働きかけて変化させようという意思とをいかにして備えるようになったか、それは単なる生命の誕生とはレベルの異なる問題のように、ぼくには思える。
 現在支配的(と彼は考えている)な「自然主義」に抗して「心」、「精神」の実体からの解放、すなわち「心」を脳の機能に還元することの誤りを説く彼の議論は、このような我々非哲学者の素朴な感覚に沿うものでもある。しかし、彼が哲学者として論理的に展開しようと試みているのははるかに高い水準のものらしい。そういう覇気を彼の文章は感じさせる。
 ただし、彼がそのような試みに成功しているのかどうか、それがぼくにはやはり分からない。おそらくより多くの哲学と哲学史、さらには本書で用いられている日常語の哲学的用法に関する知識などが必要なのだろう。

 この第1章と比べると、同じようにガブリエルの執筆によるけれども第5章は比較的読みやすかった。特に記憶に残ったのは「Ⅰ マクリュールに答えて」や「Ⅱテイラーに答えて」の中で述べられているサルトル流の「実存主義」と彼の「新実存主義」との関係である。
 ガブリエルはここでサルトルから受け継いだ要素として次の2点を挙げている。
 1. 人間は本質なき存在であると言う主張
 2. 人間とは,自己理解に照らして自らのあり方を変えることで,自己を決定するものであるという思想
 この2点はおそらく、サルトルの「実存主義」をかじった1960年代の青年の大半と共通するところだろう。しかし、いくつか気になることがあった。
 まず1について。
 我々はこれに似た表現として「実存は本質に先立つ」を記憶している。これはテイラーによれば「サルトルの(悪)名高い命題」(p.87)だそうだが、当時の多くの学生にとって「実存主義」といえばまずこの命題だった。
しかし、今回本書を通読して、「人間」に関する限りは1の表現の方が的確ではないかと思った。「実存は本質に先立つ」であれば「人間」も後天的に本質を獲得するように聞こえるからだ。
 たとえば、シモーヌボーヴォワールの「女は2度生まれる」というあの有名な言葉について考えてみる。 すなわち、女は男と同様に1人の人間として生まれながら、社会の慣習に従って育てられ、女としての生き方を強いられることによって女性となるという主張だ。
 これに「実存は本質に先立つ」という表現を適用すると、社会の慣習、常識を受け入れて成人した女性は、東洋風の良妻賢母像にせよ、耐久消費財に囲まれて社交と育児に専念する1960年代アメリカの中流階級女性にせよ、後天的ではあれ、女らしさがその本質となっているように思われる。他方で「女らしさ」を「神話」と呼び、当時の支配的慣習に逆らって自己形成したとボーヴォワールやベティー・フリーダンのように、常識に抵抗しつつ自己形成してフェミニズムへの道を切り開いた女性たちも、やはり彼らなりの本質を備えているということになる。「実存は本質に先立つ」という命題はそのような理解、あるいは誤解に結びつく。
 「実存は本質に先立つ」という聞き慣れない表現自体に魅力を感じたかつての自分を否定することになりそうで、やや残念ではあるが。

 ただし、この命題には次の疑問が生じる。本質なき存在は人間だけだろうか。生物一般に言えることではなかろうか。
 本で読んだのか自分で考えたのかはもう思い出せないが、学生時代の僕は「実存は本質に先立つ」という言葉を机と人間の対比で理解していたように記憶している。すなわち、机は人間と異なり存在する以前に机という本質がありそれに基づいて人間によって存在させられた。それに対して人間はまず存在し、本質は自らの行動の結果として獲得されると。しかし今考えるならば、これはまことに都合のよい例示に過ぎない。動物である猿や犬はもちろん植物である松や檜も人間同様にまず存在するからである。

 とすれば、「実存主義」において人間の人間たる所以はむしろ2の表現(若い頃はこれを「投企」という「実存主義」(あるいはサルトル)固有の用語で理解していたように記憶している。そしてガブリエルも他のの箇所でこの用語を用いている)に示されているのではなかろうか。

 実のところ、ガブリエルもそう考えているのではあるまいか。そう考える理由を2つ挙げておこう。
 第一に、「Ⅱ テイラーに答えて」の中で彼は、テイラーの「実存主義の伝統の共通項」とは「われわれが自らを決定する動物であることは逃れようがない事実である」という主張に全面的に賛成している。
 第二に、ガブリエルは、そしてテイラーもまた、サルトルの「実存主義」を「決意主義」と呼んでいる。

 それでは、このようなサルトルの「実存主義」とガブリエルの「新実存主義」とはどのように違うのだろうか。
 これに対するガブリエルの回答は私は明確には把握できない。しかしながら、読後漠然と感じるのは、人間が投企する際におけると行為の主体と、客観的な、主体に内在するとは言えない真理との関係が異なっているのではないか、という印象である。
 すなわち、ガブリエルはサルトルの「決意主義」について次のように述べる。
「行為主体は自らを作り上げる、その主体の自己決定は、手近な、外部のいかなる真理規範にも従属しない。これがサルトルの決意主義である。」
 他方でガブリエルは自分の考えを次のように述べている。
「自己決定は実際の真理に必ずしも縛られるわけではない。だがその決定の内容は、例えば自然の事実を見据えること、あるいは自己の確立と維持に用いる語彙を深く理解することで、必ず吟味できるのだ。」

 もしこのような理解が正しいとすると、「新実存主義」はたしかに「実存主義」を一歩前進させたといっても良いと私も思う。
 行為主体の投企が外部の客観的な真理とまったく無関係であるとすると我々は、たとえばアメリカにおけるトランプ支持者の自己決定、自己形成とより正しいと我々が考える黒人や女性への差別に反対して立ち上がる人々のそれとを区別できなくなるからである。
 しかし、そこからまた新たな問題が生じる。なぜ我々はトランプ支持者の行動を不合理と考え、それに反対する人々を支持すべきなのか。いかなる基準、あるいは視点によって我々はそれを判断できるのか。
 けだし「新実存主義」は、このような問題をも哲学的な問題として取り上げ、解決を見いだそうと試みているのであろう。